日本国尾辻 秀久|おつじ ひでひさ|
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尾辻秀久

■小原台クラブ(防衛大同窓会支部)インタビュー記事
  (『小原台クラブ会報33号』より転載)

ステーツマン・ファイナリスト

もののふとして生き
もののふとして逝く

参議院自由民主党議員会長  尾 辻 秀 久


その風貌と相まって尾辻さんには縄文人の深さを感じる。
可愛げでもある。
きっとビジネスでも一角の成果を残しただろう。

青少年時代は逆境が続く。
防大も東大も中退、5年間の世界旅。遅咲きになった。

もし君が青春という失くし物を捜しているなら、
尾辻先輩が預かっておられる。
尋ねるがいい。

■箱根駅伝第1区ランナー

――本日は、政界変容前夜といわれますときにインタビューのお時間をいただき(09・7・9取材)、恐縮の極みでございます。分単位のスケジュールと存じますので、さっそく質問に入らせていただきます。
 まず、今ではお正月の代名詞となりました箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)からです。防衛大学校が2度も箱根路にチームを送った事実、これを知らない関係者が多いですね。また、尾辻先生が箱根駅伝第1区ランナーだったこと。それを厚生労働大臣ご就任にも劣らぬ青春のグレートメモリーだと羨望を抱く凡夫も少なくありません。

●あれは私が防大の2学年、37回大会でしたか。

――1961年、昭和36年でした。翌々年にも防大チームは出場しています。関東学生陸上競技連盟の記録をもとに、5期から9期にわたる防大出場走者たちを付表(※)にさせていただきました。控えの選手も当然いらしたはずで、お名前を残しておきたいものです。

●ちょっと前に、学連選抜で出た選手がおられましたね。

――はい、03年79回大会で雪が残る山下り6区を力走した48期海・岡本英伯(ひでのり:兵庫県龍野高)君ですね。彼はインターハイのトラック障害やクロカンで活躍していたようです。4、5年前になりますか、パイロットになるための課程で下関の海上自衛隊・小月基地で奮闘中の岡本君を、当クラブ仲摩副会長のお世話で取材させてもらったことがあります。新下関駅で彼を見た瞬間、長距離ランナー特有の身体の運びだなあとの印象でした。ところで、尾辻先生は中距離ご専門だったそうですね?

●鹿児島玉龍高校時代から主に中距離を始めましてね、800と400の鹿児島県記録を持っていました。インターハイ(高校総体)や国体(国民体育大会)などの全国レベルの大会にも出場しました。走るほうの専門選手で防大に入ったのは、私が最初だったと思います。これ、多分ですけど、私の前では跳躍で有名な大戸さん(大戸彬成 陸4期 若松高)という方がおられました。

――たいへん失礼ですが、一般的に言われます種目別の標準体格からしますと、尾辻先生はストライド、コンパスなどのハンディをお感じにならなかったですか?

●いささかも。当時は100mを11秒台で走っていましたし、防大に来たら100mを除くそれ以上の短中距離の防大記録は、すべて私が持っていたというか、走ればそれが新記録ということでした。念のために当時の手帳を見ましたら「防大新記録」との筆跡がありました。

――並外れたスプリント維持能力ですね。トラック中距離といえば陸上の格闘技、マラソンより苦しいと言われます。その種目を決して大柄でない先生が専門とされたことは、ひょっとして“尾辻像”を解くカギの一つかもしれません。そのうえ、お若い折から日々の要点をメモに留められ、のちの事実照合としてもご利用される。さっそく、若い時分からの習慣づけの大事を教わりました。この年では、遅きに失していますけれど。

●あとでおわかりになりますが、私は気が向けば頑張り、そうでなければ何の興味も持てない気分屋なだけです。

――ところで、当時の箱根駅伝出場は、今のように熾烈な狭き門ではなかったのですか?

●失敬な(笑)。我ら防衛大学校選手たちは、文にも武にも長けたる勇者ばかりで選手選考に困ったほどだった、としておきましょう。

――ちなみに、08年の箱根駅伝予選会で防大は23位。東大や立大がすぐ下にいました。話を尾辻先生の選手時代に戻します。たとえ全国レベルの中距離選手であっても、箱根駅伝の約20qは長丁場過ぎではありませんでしたか? スプリンターとマラソン選手では、筋肉の質も違いますから。

●ですから1区を任されたとき、私の公式HP〔http://www.otsuji.gr.jp〕のプロフィールに書いてありますように、
「最初はトップでスタート、最下位でたすきをつなぐ」と宣言して、その狙いどおりぴったりのレース運びでした(笑)。

※ 付表 
◆第37回〔1961 昭和36年〕箱根駅伝結果
優勝: 中央大学(総合記録11 時間55 分35 秒 往路6 時間04分23 秒 復路5 時間51 分17 秒)
以下順位/ 日大 専大 日体大 明治 東洋大 早大 法大 東農大 順大 国士舘 教育大 学芸大 立大
防大(総合13 時間40 分07 秒 往路6 時間47 分07 秒 復路6 時間53 分06 秒)
【防大出場選手】
1区 尾辻秀久(海7 玉龍高)
2区 中村 均(陸6 藤岡高)
3区 甲原哲二(陸8 小倉高)
4区 谷野正芳(陸8 時習館高)
5区 青山利雄(陸5 高志高)
6区 中山篤信(空8 小野田高)
7区 中川浩佑(陸7 浅野高)
8区 高橋正憲(空6 落合高)
9区 東 宏一(陸5 国立高)
10 区 立石良文(空5 壱岐高)

◆第39回大会〔昭和38年〕
優勝: 中央大学(総合12 時間00 分25 秒 往路6 時間08 分47 秒 復路5 時間51 分38 秒)
以下総合順位順/ 明大 日大 日体大 順大 国士舘 法大 東京教育大 専大 早大 東洋大 東農大
慶大 立大
防大(総合13 時間42 分55 秒 往路6時間54 分31 秒 復路6 時間48 分24 秒)
【防大出場選手】
1区 甲原哲二
2区 中山篤信
3区 谷野正芳
4区 猪瀬 優(陸8 宇都宮高)
5区 石橋 穣(陸7 三養基高)
6区 中薗博文(陸9 検定)
7区 及川晃一郎(陸7 日大一高)
8区 前川忠明(海9 酒田東高)
9区 青木清史(陸9 浜松北高)
10 区 中川浩佑

◆79回大会(関東学連選抜で出場)
6区 岡本英伯(海48 龍野高)1時間02 分08 秒

■市電車輪の下

――尾辻先生と同期の種村良平さんに、先生のエピソードを何か教えていただきたいと伺いましたところ、尾辻選手の“足の指のこと”とだけ仰せ仕りました。それ以上おっしゃっていただけなかったものですから、はたしてお聞きしてよろしいものか今なおためらっておりますが…。

●何日か前、小原台同期の会で彼とも会ったところです。「おーおー」と声を掛け合いましたよ。その日は靖国神社の宮司が新しく決まり、そのお披露目会と掛け持ちとなって印象深い一日でしたね。

――お聞きして、さしつかえございませんか?

●はいはい。それはですね、小学生のとき電車に轢かれましてね。電車の下敷きになったことがあるのです。

――といいますと、鹿児島市の市電?

●ええ。完全に電車の下に嵌まっているわけですから、運転士も車掌も、もう死んでいると思ったのでしょうか。どうやって私を引きずり出そうかと右往左往していたようでした。

――えっ!

●そんなとき、私が自分で這い出てきた。

――うわあ!

●そのとき、足の親指がやられました。

――他は?

●親指が特に。で、たまたま担ぎ込まれたのが旧軍の軍医さんがやっておられた病院でした。私の父も海兵を出た軍人(尾辻秀一 海軍兵学校60期 鹿児島二中:現甲南高 ソロモン沖群島海戦で戦死 享年32歳) でしたから、オヤジのこともよく知っていたのですね。ところが、担ぎ込まれた私に、そのお医者が「軍人になれない身体になりおって、このばか!」と、いきなり怒りだしたのです。もう痛さなんか忘れて、きょとんとしていましたね。

――事故と救急と場面転換が凄過ぎて、こちらもきょとんと…。それにしても薩摩とは聞きしに勝る土地柄ですね。

●防大受験のときは厳格な身体検査がありましたでしょ? おそらく私の身体状態では入校資格はなかったかもしれないのですが、身体検査のときに「親指がありません」と前もって申告しましたら「おお、そうか」と言われただけで、問題もなく「合格!」となって、そのまま晴れて新入生になれたわけです。大らかな旧き良き時代だったのでしょうか。

――剣道をやっておりましたとき、蹴り足の左親指裂傷のため固定したまま試合に臨み、コテしか返せず団体戦で大迷惑をかけたことがあります。先生の場合は蹴る・跳ぶ・走る・体重を受け止める起点を喪ったわけですから、これで約1時間も速力を競うとなると…。

●親指がなかったからと思うのですが、私は運動靴とスパイクでの速さがぜんぜん違う妙な選手でしたね。運動靴だと引っ掛かりがなくて、スパイクならまあまあ引っ掛かるのです。100の11秒台は、もちろんスパイク履いてです。

――その状態で玉龍高では中距離選手となり県の記録を樹立、インターハイや全国大会を転戦された。しかも防衛大学校に入校されて、誰もが羨む箱根駅伝の1区をスパイクレスのシューズで走破。東京大手町から鶴見中継所21・4キロですよ。ブレーキも起こさず、タイム的には優勝校と7分弱の遅れだけでした。ハンディキャップの所為にせず、ものともせず、凄まじい剄さですね。

●小学1年のときの話で、ずっとそれで来ていますから「ちょっとね」というくらいで、本人は不自由を感じないというところでしょうか。まあ、下駄を履くときは…ですが。

■不条理と悪ガキ

――先生の故郷にまつわる凄まじさは、これだけではありません。ご著書「旅また人生」の『ビリから三番』という小見出しの一文には、今の教育風潮と真逆な授業風景がありました。

●そうですね、高校の卒業試験が50人中48番でした。おふくろに「オレよりもできないのが2人もいたから赤飯炊いて祝ってくれ」と言いましたら当然、叱られました。こんな調子ですから英語の先生には「脳みそに陽があたっておらん」と診断され、数学の先生には授業が始まる前に「勉強してきたか?」と訊かれます。正直に「してきていません」と答えると「なぜだ!」と青竹が唸ったのです。次の日に「してきました」と嘘を言うと「嘘つくな!」と、また青竹が来ます。

――胴体か尻にパシッと来るのですか?

●頭もです。剣道のメンですよ。

――薩摩隼人なりの土着的な励まし方、育て方なんだ、これが最初の読後感でした。

●結局、どちらの返答でも殴られることになりましたね。「おまえの頭では、いい音が出ない」と文句を言われ、いい音がするまで続行されました。青竹のほかにはマジックインキで顔にバカと書かれ、ラーフルで顔をはたかれ、チョークの粉で真っ白になり、水をかけられたこともありました。理由があればいいほうで「オマエのツラが気にくわん」と殴られましたね。あんなに青竹って割れやすいのですかね?

――青竹の問題ではなく(笑)。“コンサイス辞書事件”も理不尽といいますか、A・カミユの不条理の世界を超えますね。尾辻生徒が英語の教師に「先生の言われたことと辞書に書いてあることが違う」と質問されたときのことでしたが。

●当時、英語辞書のコンサイスが300円くらいでした。先生が「オマエのもっている安物の辞書とオレの頭を較べる気か! オレの頭を300円より安いと評価するのか!」と烈火のごとく怒りだし、顔が変形するほど殴られました。

――平成なら、完全に立件されますね。

●あの頃の玉龍高校というか鹿児島とは、著書に書きましたような風土でしたから学校の先生が殴ろうが蹴ろうが、おかまいなしの時代でした。それと、自分でも小学校のときから認識してはいたのですが、先生が一人ぶん殴ってその場を収めようとすると、だいたい私がぶん殴られる係りでした。そんな役目の代表なんだと思って受け容れていると、何となく全体の収まりがよろしかったのです。いつものこと、に過ぎなかったのですよ。

――尾辻先生から約10年後の私たちの時代は、中学までは校内でいくつも暴力騒動がありましたが、高校になると苛めた先生を運動会の後夜祭で行われた“ストーム”でプールに投げ込んだりしました。尾辻少年は、よくも、ひねくれなかったですね?

●時代(昭和30 年頃)が、そんなだったですね。ひねくれるのでしたら、とっくに思いっきりひねくれていますよ。それ以上、どうにもならない、というのが当時の置かれた状況でした。今からすると、まあ、まともではないですねえ。ただ、私の恩師たちは自信をなくすような教育はしておりません。そうやって自信を持たせてくれたのですね。先生方は自信を持って叱り、殴ってくれたと思うのです。自信と情熱を持って教育する、これが自信ある人間を育てる要因となるのではないでしょうか。そのときの先生は、今でも好きですよ。

――大人過ぎるなあ…。少年時代の尾辻生徒の存在というのは大人にとって、いい意味で不気味に近い畏れを抱かせたのではないでしょうか。例えば子供のくせに妙に落ち着き過ぎていたり、脆弱さを見せない憎らしさなどです。大ばかなのか大天才なのか、判断がつかない苛立ちの補償行為であったかもしれません。僭越なこと申し上げてすみません。当然、インタビューをしております我らも、既に尾辻先生という深みに溺れそうなのでございます(笑)。

●そうなのかどうかわかりませんが、まあ、一つはっきりしていたのは私が有名な悪ガキであったのですよ。

――ただの悪ガキなら玉龍高―防大へは進めません。それにしましても、父親が戦死された母子家庭である子弟を打擲したのは、ハンディに呑み込まれないよう強く育ってほしいとの思いがあったみたいですね。

●悪ガキだった良い例があります。私にはたった一人の妹がおりまして、小・中と同じ学校へ通いました。彼女が高校進学のとき、母親が「ぜったいに兄と違う学校に入れる」と言い張るのですね。なぜかというと、母親が妹のことで学校参観に行ったのに兄の元の担任などにつかまって「あいつほど悪いガキはいなかった」と必ず文句をいただくわけです。帰宅した母が「あんたのことで先生に文句言われて、こんなばかばかしいことはない。玉龍高校に入れたら、こんな調子で文句言われ続ける」と本気でこぼしていました。ですから学校カラーがまったく異なるミッションスクールの鹿児島純心学園に入れたのです。

――玉龍のバンカラ臭い校風が、女子には向かないと判断されたのでは?

●女子高の純心なら私の悪名が知れ渡っていない。兄とは縁もゆかりもない学校へ入れなければならないほどだったのです。何年経っても噂の消えないほどの悪ガキ、それが私だったのですね。

――ところで、母子家庭でミッション系に入れるには経済的に大変だったでしょう?

●まあ大変だったと思いますけれど、その大変さより私のことで文句言われる大変さのほうが大変だったのでしょう。

■妹(いも)の力

――先生の出生地は加世田市(現南さつま市)となっていますね。私の同期で加世田高校から防大に来たのがいました。

●玉龍高は市立、加世田高は県立です。加世田というのは小泉元総理のオヤジさんの出身地です。実は私のオヤジも加世田の出なのです。

――防大を志望されたのは、お父さんのご経歴から当然の方向でしたか?

●オヤジ、海兵でしたからね。何となくそんなことで、単純な言い方ですけれど、オヤジの跡でも継いでやろうかという、そんな感じだったでしょうか。防大ならおカネがかからないのは、もちろん底流にあることとして。

――ソロモン群島沖海戦で戦死された駆逐艦「夕霧」艦長・尾辻秀一海軍少佐(当時)のことは憶えていらっしゃいますか?

●オヤジの死、最後に会ったのは私がせいぜい2歳何カ月のことになりますか。思い出に残っているような気分にはなるのですが、ほとんど写真や何かで…。私が10月に生まれ、オヤジの最期が11月でしたから、正確なことで言えば記憶にはないのでしょう。

――先生にとって父親がいないということは、どういうことでしたか? 時に、お父さんの存在を追い求めたりなさいましたか?

●まずオヤジがいないということは、物心ついた頃からそうだったわけです。我が家にはオヤジがいないということを、さほど意識したことはなかったように思います。まあ、父親のいる友達同士の会話なんか聞いていますと、「オヤジがうるさい」とか「オヤジに怒られた」とか文句言い合っていました。そうかオヤジがいることは不便なことだなあ。我が家は、おかげさまでよかった…くらいのことでしたか。

――しかし、運動会で父兄席の父親と走る親子リレーには反発をお感じだったとか。

●そうそう、運動会の家族リレーのときだけは腹が立ちましたね。子供の頃から足は速かったのですが、オヤジがいないから家族リレーには出られないので見せ場がありません。ですから、ボーっと突っ立って待っていましたよ。

――運動会もそうですが、テレビでよくやる有名人の両親子供礼賛番組なども。母子家庭や孤児だって観てるだろうに、残酷だなあと感じることがありますね。

●そういうときは「何で、いないんだろう」という思いはしました。けれども限定的な思いで、特にどうこうとの思いはなかったといえるでしょうか。

――次に、お母さん尾辻智さんのことです。GHQが神道廃止を決めると靖国神社は通常の宗教法人になりました。急に価値観がひっくり返され、もちろん旧軍人は戦死しても「悪」のレッテルを貼られます。そのうえ、軍人恩給が停止。そこで、尾辻智さんは父や夫を亡くした妻たちのために、鹿児島県遺族会の設立に奔走されました。

●昭和22年(1947年)、敗戦の翌々年に日本遺族厚生連盟が全国組織で誕生しました。母は鹿児島県遺族会の役員・事務局員として働けるようになりました。遺族への経済支援は、この連盟発足から5年後です。とにかく母は、寡婦となった妻と家庭の経済的支援を求める声の代弁者となりました。当然、「オンナは黙っちょれ」などの罵声を浴びましたよ。

――男の子と女の子を女手一つで育ててこられたお母さんも、若くして逝かれました…。

●私が防大2年生のときの正月2日に箱根駅伝を走って、3月に進級。で、3年生の8月1日に母41歳で急逝しました。当時、海上の夏期訓練の終盤で演習か何かで学校にいたのです。報を受け、慌てて帰郷しました。死に目に会えませんでした。

――またまた過酷ですね。防大3年生の兄と妹が残されて。

●妹は高2だったと思います。彼女ひとりの力で身を立てるには、まだまだでした。もう母親はいませんから、兄貴の務めとして高校くらいは出してやらねばと、ようやく妹に迷惑かけない自覚が…。先立つ経済的なことが、まず去来します。防大生の身分ではアルバイトはできませんので、手当たりしだいに就職先を探してみたりしました。葬儀などを終えて9月に小原台へ戻りましたが、「我が家は妹と二人っきりになってしまって、どうにもならないから…」と学校側に窮状を伝え、「辞める」「辞めるな」のやりとりが続きました。そこで「まあ、いっぺん家に帰ってこい」と言っていただきまして帰省したのです。

――確か復活したとはいえ、遺族年金は微々たる額の頃でしょう。

●帰郷しても、妹を養っていく方策が何も見つかりませんでした。そして防大に戻って「どうにもなりませんから、やはり辞めます」と、正確に憶えていませんが、3年生の10月だったと思いますが最終決断を学校に申し出て、どうにか許可されました。

――ちなみに、妹さんの尾辻義氏は日本女子体育短期大学へ進みました。鹿児島純心女子高校新体操部を創部、指導に当たり20年間でインターハイ団体12連覇を達成されました。山崎浩子選手を輩出した学校です。現在は鹿児島県議会議員、当選6回、県議会初の女性副議長も務めました。

●両親には、どうにか顔向けできたのかな。

――先生のお子さんはお嬢さんが3人、早くにお母さんを亡くされたりで溺愛ではありませんか?

●子供たちには「好きにせい」と言ってあります。その代わり何もしてあげないです。よく議員なんていうのは他人様の就職や口利きはしますが、「我が家のことに資するためにオレは議員やってるんじゃない」と言ってあります。子供たちは私が何もしてあげないので諦めているみたいです。自分でやっていくしかない、子供の頃から私も彼女たちも身に沁みて知っています。ですから、私も子供に注文はつけません。

――確か、先生のお母さんの口癖も、「好きに生きなさい、私の子ですから信じてます」だったですね。

●うまい言い方ですよね。悪ガキや天の邪鬼なガキには、こういう物言いに限ります。

――九州に数年住んだことがあります。九州男児のイメージが広まっていますが、たいがいは女性の掌で上手に生かされているように見えました。柳田国男は「妹の力」で、古来より女性には気高さ、賢しさなど霊力が宿ると言います。妹(いも)とは、近親の女性や恋人までを含む女性だと。尾辻先生も、昔と現在の2つの家族の女性陣に加護されてこられたのかもしれません。

●母の死は、当時の私には特別な打撃でした。母は24歳で後家になり、その後は、ただ私たちを育てるだけの生涯。その強い姿は今でも私の中に生きています。世界を巡ってみて、日本の母ほど強くたくましい女性もいないことを知りました。日本の美しさの一つですね。母親の尊さを知るのは、いつだって母親が死んでしまってからのようです。それにしても、いたずら好きで勉強嫌い、いつも母を困らせていた悪ガキ…。

――尾辻先生、今ではまったく逆の評価を受けているようですよ。自民党には辛い点数をつけるシルバー世代が、ネット上などで先生のことを好意的に表現します。「冷静沈着」、「清廉潔白」、「温厚篤実」、あるいは「参院の良心」「虫瞰図の描ける人」などです。

●まあ、そのような私への評価があるようですね。この前も或るマスコミが「温厚」と書いてあるのですよ。そんな評判や記事に接した女房が、大笑いで「これは誤解でしょう? お父さんが温厚だなんて、こんな誤解はありませんね」と言ってきます。私は、「美しき誤解だからいいじゃないか」と放っておくように言いつけます(笑)。

――中高年の意見だけではないようです。ちなみに、若い人のブログで尾辻先生のことをテーマにしたのがいくつかありました。「箱根駅伝に出たらしい」「防衛大と東大ともに中退した、もったいない人」「日本人でヒッピーの元祖らしい」「こんな苦労人で温厚な議員が自民党にいたんだ」「第1回大宅賞候補だった」…などです。あとで言及しますが、がんで亡くなった民主党・山本孝史議員への心を打つ議会での弔辞とその映像(u-tube)も影響していますでしょう。

●「美しすぎる誤解」と女房が言っておりますので、みなさま騙されませぬよう(笑)。

■厚生行政を志す原点

――さて、防大を辞めて無職になった兄は、いかように暮らしを立てる算段をされたのでしょうか?

●とりあえず何か収入を得なければならんですし、どこか就職しようといくつか会社訪問してみました。あの頃、まあ…何ていうか…。

――防大3年中退では、会社側が評価してくれなかったのですか?

●いやいや、そんな単純な理由なら何ともありませんよ。当時、片親という環境では、よほどコネやツテがない限り雇ってくれなかったのです。ましてや両親のいない子供は、ぜったいにあり得なかった。採用担当者が「片親でも就職させていないのに、両親がいない子弟なんて…」と言いたげな応対でしたから、「何で雇わん!」と迫りましたら「うちは慈善事業やっとるわけじゃない」と。よーく憶えております。ものすごく記憶に残っております。そこまで言うか、と思ったことはありました。

――今は派遣切りが問題になっていますが、昭和40年頃でも親元から通わない女子は採用しないとか、特に母子家庭の就職は不利と言われていました。

●ですから、とりあえず片っ端からおカネになることをやってみたのです。家庭教師、酒屋やお店の配達、警備員などが三本柱。この前、日経さんだったと思いますが、「あんたは30以上の仕事をしたと書いてあるが本当か?」と訊いてきました。略歴に間違いがあってはならぬと記憶をたどって書き出してみましたら、40くらいの仕事をやったことが確認されました。

――同期の種村さんが尾辻先生を「彼こそプータローとかフリーターの元祖ですよ。しかし、ちゃんとした外的要因のために、そうならざるを得なかった正統派として」と評されておられました。

●そんな時代背景と地方都市の封鎖性でしたから結局、塾を始めたのですね。

――といいますと、受験とか補習のですか?

●はい。それが、けっこう大きな塾になって、あれをまじめにやっていたら今頃、日本有数の予備校経営者になっていましたのに。

――確か、さきほど高校の卒業試験がビリから何番だったとか…。

●私が先生たちに酸っぱく言われたことを生徒に、オウム返しに言うだけ。「オマエらは、ばかだ、ばかだ。こんなこと解らんか!」と。反発する生徒たちは、おかげで何くそと頑張れたのですね。

――先生が世界放浪中のアメリカで、大学2年生に数学を教えるくだりがありますね。1ドル360円時代に1時間50ドル(約1万8000円)という破格の教授料で引き受けましたね? しかも物理も化学も、ご自分は天才と呼ばれているなどと異国の青年に吹聴されました。

●はい、まちがいありません。もちろん50人中48番だったとは死んでも言わぬ覚悟でした。ときどき相手が解らなくなると「こんなのは日本なら中学生がやる内容だ」とハッタリをかませ、オマエは頭の程度がひどいとか脳細胞が足らんのじゃないか、などと叱咤激励しましたよ。

――とにかく鹿児島での塾が繁盛して、経済的には落ち着かれたのですね。前述の世界放浪は、東京大学在学中の挑戦ということになります。では、なぜに東大に?

●今申し上げましたように、塾生たちには私が高校時代に先生から言われたとおりを真似していたのですが、さすがに彼らも開き直ってきて「先生がばかでないことを証明せい」と抵抗してきました。「あんたは利口か?」と言うので「利口だ」と私は返し、売り言葉に買い言葉の応酬に決着をつけるために、「今でも東大くらい通ってみせらね」と啖呵切ってやりました。すかさず彼らが「そうか、なら通ってみせい」と逃げ口を閉ざし、「そんなん簡単だ」となって東大受験に合格しなければならなくなったのです。

――生徒と真剣に渡り合うのも教育では大事とは思いますが、対等に過ぎませんか(笑)。

●私は、ものすごい気分屋なのです。何でも、気分が乗らないとやらない。勢いで塾の子供と意地張り合って約束してしまいましたが、東大に通らなければ、こいつらに何言われるかわからない。気分屋ですから、そういった環境や状況に陥ると、それはそれで頑張ってやるのです。

――東大といえども、ノリの気分で合格は難しいですよ。で、しかしながら東京大学教養学部に見事パスしました。世界放浪の旅に出られたのは、在学中のことですね?

●これまた、さしたる理由はなかったのです。東大へ行ったのはいいのだけれど正直な話、受かることを証明さえすれば、あとは用がなかったものですから。

――おお、もったいない。あの頃流行しました四当五落(4時間しか寝ない受験生は合格、5時間も寝ると落第という意)≠フ精神で頑張っていた受験生からはブーイングですね。

●いや、本当にパスしさえすればよかったことですから。通ってしまうと実は、あとは用がないのですよ。子供らに、オレは馬鹿でなかっただろうと証明できましたからね。それで、入学手続きと休学手続きを同時に済ませて鹿児島へ帰ってきました。本心は入学手続きなどしなくてよかったのですけれど、誰もが「せっかく通ったのだから一度は入ってこい」と言うものですから、それもそうだなあ、と。

――それに、当時は学生運動家がキャンパスを闊歩し、機動隊にゲリラ戦もどきの攻撃をするのが日常でした。大学で通常のカリキュラムを消化できたのは防大くらいでした。

●故郷でしばらく暮らしていますと、たまには東大に行かんといかんとなりまして上京してみました。当時は安保と安保の境で、都内のキャンパスはおっしゃったような惨状でしたね。学生が気楽にワーワーやっているように私には映ったのです。

――東大入学は昭和39年、23歳のときでしたね。ストレート合格者とは約5歳年上ということになります。しかも若くして酸いも辛いも経て来られた尾辻新入生からしますと、団塊世代付近の烏合的言動なんぞ、おかしかったことでしょう。

●学生らの子供っぽい理屈の演説を聞いてみると腹立ってきまして、アジテーターの前に行って目の前で「オマエ、いいかげんなこと言うな!」などと逆にアジってやるわけですよ。向こうも、どうもあいつは防大崩れらしいとか右翼だろうということで有名になってしまいました。右翼と左翼が構内で喧嘩していたことありましたが、向こうは私の名前なんか知らないので、「ウヨクー!」と声が掛かり、年食った新入生のことは知れ渡ってしまいましたね。

――そんなアジテーターが発する、知性も感じられないような演説のイントネーションが当時の子供に伝播し、反省もなく世間は第二次高度経済成長に呑まれていきました。

●東大でも、そのうち授業がなくなりました。構内出入り口も閉鎖されて、入学試験が飛んだ年もありましたよ。そんなこんなですから、妹のことが何とか一段落着いたこともあって「じゃあオレは世界を放浪してくるか」と、ふらっと出て行ったのです。

――尾辻先生のその発想と即行動こそ、全学連世代以降とのスケールの違いです。学生運動世代の大ヒット曲「神田川」の続編に「妹」というのがあります。歌詞は両親に立たれた兄妹、親代わりをしてきた兄が友人に嫁ぐ妹に「お前ひとりが気がかり」と涙ぐみ、しみじみと動かず…ということなのですが、尾辻先生はそのウエットさで満足されませんでした。

■ボッケモン世界を行く

――昭和41年5月末、25歳の東大生・尾辻青年の乗船したフランス郵船「ベトナム号」が日本を離れました。その時は、旅が5年にわたり計70カ国・13万キロに及ぶとは予想もされなかったそうですね。

●当初は、1年くらいの予定でした。旅先での足は日産グロリアで、塾講師と酒屋の配達や夜警をかけもちして3年間で貯めたお金(100万円)のうちから工面しました。55度の砂漠や赤道直下から氷点下30度のアルプス、アンデス、北極圏をも走り抜いてくれました。インドのボンベイからイスラム圏砂漠地帯を経て、42年と43年はヨーロッパ放浪でした。所持金など、すぐ底を尽くもので現地で稼いでは旅を続け、文無しになるとアルバイトをする繰り返しでした。そんな全世界放浪を「ボッケモン世界を行く」「続ボッケモン世界を行く」「アフリカ旅日記(写真集)」の3部作を編集して「旅また人生」として上梓させていただいております。

――5年の世界放浪だけでも面白くて、インタビューならまる三日三晩は要します。今回は割愛させていただき、尾辻議員公式HP〈これまでの著作〉に「旅また人生」の粗筋がございますのでご覧ください。先生が世界を旅された前後に、小澤征爾がスクーターとともに先生と同じ航路で発ち、フランス・ブザンソンの指揮者コンクールで優勝しました。石原慎太郎もスクーターで南米縦断を。海では堀江謙一の太平洋横断、そして小田実「何でも見てやろう」はベストセラーとなって、当時の日本青年たちは無鉄砲と揶揄されつつも荒野を目指しました。

●鹿児島弁で「ボッケモン」とは粗野とか荒削りとか向こう見ず、でも大胆で剛毅な人の意です。まあ、私なんか、あの有名な悪ガキが、またまた向こう見ずなことをやり始めたと地元は見ていたでしょうね(笑)。

――旅の終わりは、いつになりましたか?

●30歳になっていました。

――「なぜ防大に?」「どうして東大へ?」「何の目的で世界放浪を?」と、当インタビューで先生が稚拙な質問だなあとお感じなことを伺っております。当時も、アフリカ・サハラ砂漠を愛車と横断する前に、同じように「なぜ」「何のために」などの問いを先進国でも受けたようですね。

●外国人にでさえ、度々「何のためにアフリカへ行く?」と訊かれました。
 当時の私は以下のごとく、旅の思いを記しています。
『 どうして旅に目的がいるのであろうか。日本人にとって、旅はつねに目的のための手段である。冒険となると成功すればいいが、失敗すれば非難のあらしだ。利口なエコノミックアニマルは安全に行動する。利益を考える。しかし、ばかは単純だ。行きたいから行くだけだ。ばかを承知でアフリカに行く 』
30年以上も前の世界ですから、現代の世界・民族事情とは異なって不適切な表現になってしまった部分もありますが、無鉄砲な未完成の青年の感想としてお読みいただければ。

――アフガンやホンジュラスは、先生が旅した頃も今も内紛・クーデター状態で考えさせられます。旅とともに先生がだんだん日本や故郷の善さを感じてこられ、フィンランド娘と恋に落ち、デンマークでは同棲。男性として磨かれていくさまは、防大か東大一本槍でしたら磨きが不足していたでしょうか?

●さあ、どうでしょうか。5年の旅を終え、まず鹿児島で行動したことは外国との交流運動が多かったですね。故郷の好感度をアピールするために在鹿児島外国人と交歓会を開いたり、県を動かして勤労青年を集めて船上パーティーを開催したり、世界ケチケチ旅行クラブの組織、桜島一周夜間歩行を始めたのも私のオリジナリティと思っています。地方立国の原型づくりとか金権選挙に対してケチケチ選挙運動も展開しましたから、今の世の流れの芽生えを既にやっていたのかもしれません。

――そして、みんなに推されて県議選に出ますが、初陣は落選。以降、県議を2期務めて平成元年、参院比例区で国会議員初当選されます。遅れて来た青年≠ェ、いよいよ目を覚ましました。先生の青春をふり返られて、防大50期台の青年たちに言葉を贈るとしましたら?

●まあ、いろいろですが…。鹿児島には昔から「泣こよか、ひっ飛べ」という言葉もあります。現実の劣勢に涙するより思い切って何かをやれ。やってみなければわからん。そういう心意気で頑張っていこうではありませんか。

■「若い我ら 我らの恥辱」

――故・山本孝史議員への弔辞は会議場を泣かせた弔文として有名ですが、本年1月の参院本会議における尾辻先生の代表質問は、厚生行政はもとより外交・防衛にも言及され、これもまた党利党略を越えたステーツマンとしての評を得ています。

●冒頭では深刻な自殺問題と、その要因たる雇用現状の対策やワークシェアリングなどから質問させていただきました。

――景気対策、消費税の導入に関して、尾辻先生は「野に下ることは恥ずかしいことではありません。恥ずべきは、政権にあらんとしていたずらに迎合することです。総理、毅然としてお進みください。御一緒に参ります」と、議会場で麻生総理に申し上げました。これがまた、ネット上では気骨ある発言として、嫌自民派からも評判をとっています。

●美しき誤解は、そのままよしなに(笑)。

――次いで、麻生首相への質問には防衛大学校にまつわる吉田茂元首相、槇智雄校長、特に作家・大江健三郎を登場させる、思いもよらない演説内容でした。

●「私は、かつて防衛大学校に籍を置きました。大江健三郎氏に、防大生は日本の若い世代の恥辱だと言われたころであります」と、切り出しました。この意味がお解かりになるのは、ふつうの市民からでも「税金泥棒」と罵られた時代の小原台育ちでしょうね。

――大江健三郎のエッセイ集『厳粛な綱渡り』で更に有名になったフレーズ、「若い我ら、我らの恥辱」。初出は毎日新聞コラム『女優と防衛大生』でした。防大を訪れた有馬稲子さんの書いた感想文に、大江健三郎が噛みついたものですね。
そこまで言われたことを“恥辱者たち”がいかように、いつ反撃なさるか、個人的にずっと忘れずにおりました。40年後に、尾辻先生が国会で引用されました。

●「初代校長、槇校長は、もののふの道として服従の誇りを説きました」と、私は続けましたね。国の将来という抽象的に見える目標を見据えた服従の誇りも、もののふの道でしょう。

――先生の代表質問のおかげで、恥辱事件は卒業できます。当時、理工系専攻の防大でありながら源氏物語を福島行一助教授に、大江も傾倒したフォークナーを織家教授に習った贅沢さは、「大江、何するものぞ」との自信を得たものでした。彼の初期短編と、当時の2フレーズくらいで敵を射る才は見事でした。後年、ノーベル文学賞賞金使途をテレビで語るのを聞いたとき、服従というもののふの道を歩んだ小原台育ちのほうが、他者への愛情を持っているな感じました。
 話が逸れました。さきほど同期会の話題を披露なさいましたので、同期との交流はありそうですね。

●ありがたいことに、卒業しなくても同期の会には今も呼んでくれます。玉龍高から防大に行った同級生に出來義彦(海7 航空工学)というのがいて、家も近所でした。湾岸戦争の機雷処理のためにペルシャ湾へ掃海部隊を率いた落合o(たおさ:海7 東教大付属)は海上9班で同じでした。なぜか海上9班は7期でも飛びっきりひどい班で、水泳訓練になると「総員30名、事故10名、現在員20名」と申告していました。10名はサボっているという有名な逸話を残しましたね。

――落合さんとは家庭環境が似ていませんか? 落合さんのお父さんの大田実海軍中将(海兵41期 千葉中)は沖縄戦始末で「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と次官に打電して自決され、中将のことを人知れず好意を抱く同県民も少なくないと聞いています。

●落合がペルシャ湾に赴任したとき、私は参院議員になっておりましたので、山崎拓先生やのちに参議院の尊師と言われた村上正邦先生と一緒に激励しました。

――7期は特異な方々の宝庫かもしれません。干支は辰ですか。

●辰年は関係ないでしょう(笑)。我ら7期海上9班は、ひどく娑婆っ気の豊かな面々でしたね。ですから、地域の民間の方々とうまくお付き合いをしなければならない地連部長は、元班員がほとんどやったくらいです。「おいおい、地連部長はすべて海上9班でないか?」と冗談に確かめ合ったことがありました。元班員の多くが地連部長に就いていたときは、それぞれの頼みごとなどを「おい、何とかせい」と互いに交換処理していたようです。

――7期の陸、空も頭領的な人材がおられるらしいですね。

●大分の別府市議になって、5年前に急逝した後藤健介(陸7 浮羽高)もけっこう変わっておりましたね。海では、民間パイロットになったのがいました。

――海上7期では、筧研二さん(富山中部高)も民間パイロットでしたが。

●そういえば、ちょっと前に落合と会いました。今度のソマリア沖海自派遣に関して、政府与党がどうしようかと私のところに相談に来ましたので、委員会の参考人として落合を呼ぼうということで。「来てくれ」と電話したら「ああ、いいよ」と一つ返事でした。

――第171回国会 予算委員会(平成21年3月17日 公聴会第1回)のときですね。

■もののふとして

――赤ワインがお好きと伺っておりますが、歌や音楽などは?

●この前、有馬万里代さんという小学校1年生のときの音楽の先生にお会いして怒られてしまいましたよ。いろんな所で私が「いまだに音痴なもので…」と言って歩くものですから、「あなた、わたしの評判を落として歩いてるでしょ!」と。それくらい歌うのはダメなのです。その有馬先生は全国レベルの音楽家でして、鹿児島大学付属小学校で音楽を担任されてから鹿児島のオペラ協会会長など地元声楽教育に尽力され、今は鹿児島大学名誉教授です。Nコン≠ナ有名なNHK全国学校音楽コンクール審査員でもあります。

――尾辻先生の玉龍高校後輩に田丸寛という合唱指揮者がおります。ゴスペル(教会で賛美歌を黒人ジャズ風に合唱)の大家で、鹿児島大でその有馬先生に師事しています。彼以外にも、クラシックからジャズまで有馬先生に師事し、これから売り出すアーティストは多いみたいですね。

●そうでしたか。私の音楽に関しては、そんな状態です。

――愛読書はございますか?

●これといってないのですが。

――おそらく、そうご回答なさると想像できました。尾辻先生は先人の書物を提灯にして夜道を往かれる方とは思えません。尊敬、いえ私淑される人物ですが?

●やはり西郷とか大久保とか鹿児島の人 たちですね。まあ尊敬するといえば尊敬 しますし、彼らのように生きていきたい ですし、最期をそのよう締めたいなと。 金も名誉も命も要らぬ…彼らの心境で、 これからの最後の仕事をしていきたいと いうことです。これ言うと言い過ぎかも しれませんが、大久保が最後に護衛を付 けずに殺されたということ。見習わなけ ればいかんかなあと思っています。

――西郷さんの手紙を懐に、紀尾井坂で石川県出身旧藩士・島田一郎らに襲われたものですね。国政において、尾辻先生が党内で安易な妥協をなさらないことは漏れ伺っておりますけれど。

●申し上げましたごとく私の性格は激しいものですから、脅しの電話なんかしょっちゅうですよ。「覚悟しとけ」なんて、よくかかってきます。FAXは頻繁に、一晩中「死ね死ね死ね…」と送られてきます。まあ、紙代が大変ではありますけれどね。議員とやり合うときは相当、激しいですからね。怒鳴りだすと廊下まで聞こえる、と記者さんたちが言います。テレビの国会委員会などで、壁耳といってよく記者さんが壁に耳を付けて聴いていますでしょ。そうしなくても私の怒声は廊下まで筒抜けなのだと。

――それから、再びお父さんのことですが、尾辻秀一氏を一人の日本人として、今はどうご覧になっているのでしょうか。

●父、オヤジですか…。さっき申し上げましたように子供の頃の記憶があったような気分になったり、いろいろな方が父についていろいろなお話をしてくれました。まあ、死んだ人間の話ですから他人様は、より良いように語られますから美化されて私は聞いていることになりましょうか。では父のことを、ひと言で表現するなら、「もののふとして生き、もののふとして死んで行った」ということでしょうか。自分でもそうした生き方といいますか、自らもそうしたいと思うところがあります。

――国政の場でも、そうした精神で行動されているのですか?

●私は自民党の党六役ですから、首相がお辞めになるときも官邸に6人連れ立ったのです。或る参院の重鎮から「辞めると言っている」との連絡がありまして、とりあえず、この6人で参じました。私としては、ちょっとした頭痛とか腹痛で辞めるなんてと腹が立ちました。そして、そんなことで辞めるなら腹を切れと迫ったのですね。他の重鎮が「オレが言わなきゃならんことをオマエが言ってくれた」なんて調子のいいこと言っていましたが。

――もののふとして生きる、ですか。

●そうです。ですから、凄まじい剣幕で「腹切れっ!」と迫ったのです。以来、そのお相手とは会話を交わしておりません。この前も2時間、隣り合わせる場面があったのですけど意地の突っ張り合いです。私からすれば、そんな理由で辞めるなんて、「オマエと物言わん」という怒りでした。

――そのような真剣な物言いや態度を自由にぶつけることも自民党のしたたかさ、大らかさだったのですが、最近は礼儀正しそうな方々が多くなったようですね。しかし、もののふの精神で尾辻先生に直に迫られると、相手も大変だったでしょう。

●さすがに、そのときはご本人に直接申し上げることはしておりませんが、態度でしっかり示してきました。責任ある立場にあればあるほど、もののふでない人間は許せないのです。ということで、本来のオヤジの姿が「もののふとして生き、もののふとして死んで行った」であったかどうかわかりませんが、みなさんが私に語ってくれたオヤジとは、そうなのだと認識できるようになりました。

■政変前夜

――もし、党内から推されましたら?

●私はそれほど、ばかではありません。

――読者諸兄、尾辻先生のおっしゃる“ばか”は、単なるばかの意ではありません。電車事故のときの医師、玉龍高校の先生たち、塾で生徒たちと交わした「ばか」、そこには汲々とした凡人には測れない精神的ディメンジョン(寸法)が見られます。

●まあ、あなたのご質問の前提はありえ得ませんし、己は知っております。

――政権交代は、あるほうがよろしいと思われますか?

●私個人と前提しての正直な意見ですが、交代したほうがいいと思いますね。社会保障をずっとやってきて厚生労働大臣も務めましたことで、負担と給付の関係は誰にも手品のようにはいかないことがわかりきっております。給付を大きく望むなら、負担も大きくせざるを得ない のです。老後の年金をいっぱいもらいたいというのであれば、ご本人も周りの現役の人たちも、現役のときに大きく負担せざるを得ません。おカネや給付金が天から降ってくるわけではありませんから。

――特に選挙前はシュガーコーティングの口車、マニフェストを嗅がせ、選挙後は先延ばしの阿りと現実逃避ですから。

●国民はまだ、負担は小さく給付は大きくと望んでいます。「そんなことはできない」と正当なことを説明しましても、今なら「自民党が悪い、政治が悪い」となります。ですから、いっぺん民主党がやって、そんな手品は誰にもできないことをまず証明しなければなりません。で、じゃあどうする? という論議が始まるのです。こういう環境下で自民党がやっていると、どこまで行っても負担小・給付大という借金体質を繰り返す。日本の借金が膨れ上がっていくことにストップがかからない。そういった意味での政権交代です。政権というのは、基本的に交代する仕掛けがなければ、時に腐敗もしますからね。そういう意味で、政権というものは交代が起きる仕組みにしておいたほうがいいと思います。

――それから、ずっと疑問に思っていたことがあります。尾辻先生の過去のご経験からしますと、厚生行政へのこだわりは理解できましたが外交、防衛、安全保障などを含めた国の行く末にももっと関わるべきでは、と?

●ええ、特に厚生行政一本というのではありません。しかし、さきほど申し上げたように私の家族は父が戦死した遺族でした。母も早くに亡くなり、兄妹は完全に遺児となりました。働いて妹を養おうとしましたが就職できませんでした。そういう過去とめぐり合わせが原点にありますので、どうしても政治の原点も厚生労働行政なのです。

――「虫の目になる」が基本姿勢でしたね。

●よく政治は鳥の目、虫の目の両方必要といわれますが、私は徹底して虫の目で政治をやろうと決めて今日に至るまでやってきたつもりです。となると、厚生労働行政に向かいますよね。さらに、遺族会の代表で参議院議員になっていますから、その組織を背負った議員ということで、それもまた原点ですから。

――先生は鹿児島遺族会会長、日本遺族会副会長を務められています。お母さんも戦争遺族の生活を何とかしようと奔走され、時には世間の抵抗に遭われておりました。

●遺族会のことも厚生省援護局(現廃局)が担当していまして、厚生行政の範囲です。どうしても旧厚生省とのつき合いからスタートしており、最初は援護局、だんだん他の部署へと縁が広がり、そういう意味での族議員になりますね。

――政治的に、今は維新前夜のようなものですか?

●あなたがおっしゃる維新ということで言いますなら、幕末に似た状況が見られるかもしれません。法治国家ですから政治生命を賭けた行動結果ということの暗殺、寝返り、乱など何度か繰り返されて、次の落ち着きに向かうでしょう。

――尾辻先輩、もう次のお約束お時間で す。最後に一つ、お願いを述べてよろしいですか?

●何でしょう?

――防衛大学校の校長先生になっていただけませんか?

●みなさまが、私のことを美しく誤解され続けられますなら。

尾辻秀久

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