残したい「国家補償の精神」
鹿児島県退職公務員連盟大会・来賓祝辞 平成二十二年十一月十一日 鹿児島市勤労者交流センター多目的ホール
おはようございます。今年もまた皆様、このようにお元気でお集まりになりまして、県の「退公連」の大会が開かれましたことをお慶び申し上げます。
ご紹介をいただきました参議院議員の尾辻であります。今、参議院の副議長をいたしております。知事も市長も代理の方でございましたが、私は本物でございます。ごあいさつを申し上げます。
その昔、といいましても、もう少なくとも三十年以上は昔でありますけれども、恩給四団体という言葉がありまして、四団体とは、皆様方の「退公連」に、「軍恩」、「傷痍軍人会」、「遺族会」の四つで、四団体と言っております。
しかし、やがて、皆様方の文官の恩給と軍人恩給その他の三つの団体の恩給は、性格が違うということなどもありまして、四団体という言葉はなくなってしまいました。ただ、私は、参議院の全国比例区で出していただいておりますが、そもそも遺族会でありまして、遺族会の代表として参議院に送っていただいております。ですから、四団体として、暮れの予算編成で大いに頑張った頃を大変懐かしく思い出すわけでございます。今日も率直に申し上げまして、その懐かしさゆえに皆様方のこの大会に出させていただきたいなあと思ってやって参ったのであります。
その頃、予算編成は、本当にもう年末ぎりぎりまで大騒ぎになるものでありましたし、年を越すこともたまにございました。正月の元旦の飛行機で東京から帰って来ながら、機内でお雑煮を食べたことなどを思い出すのであります。
そして、当時は、三役折衝、政治折衝という言葉もございました。最後の最後は、党の三役、幹事長を中心にして、ここで決着をつける。恩給の額は、必ずこの最後の三役折衝、政治折衝までもつれ込むのであります。そして、本当に、最後の最後に、いろんなお金、国のお金、余ったと言ったら表現は悪いんでしょうが、残ったお金を全部まとめてきて、最後に恩給にドーンと付けるというのがやり方でありましたので、よく「俺たちに残飯を食わす気か!」と、時の政権与党自民党の幹事長室の前に座り込んだことなどを,今本当に懐かしく思い出すのであります。
時は移り変わり、様々なことが、まさに様変わりいたしました。恩給が年金になったりしましたけれども、一つ変わってないことは、皆様方が国家のために尽くされ、そして国家のために尽くしていただいた、頑張っていただいた皆様方のご苦労、そのことに報わなければいけない、ということです。これは決して変化しないことだと思います。それまで、「恩給」と言われたものが「年金」という言葉に変わっても、かつて恩給の頃にあった「国家補償の精神」というもの、これは残っていかなければならない。私は、いつもそう思っております。そのことを踏まえながら、今後の年金のことも考えていきたいと私は思っております。
よく、一体化とか、一元化とかいうと、それだけで無条件にいいことのようにも言われますけれども、果たしてそうであろうか?いろいろ年金にしたって、それまで現役の頃に働いてこられたけれども、形も変わる、お出しになった保険料もぐーんと変わる、それでも果たして一体化、一元化だけが正しいんだろうか?
フランスのように、みんな違うんだから、年金の制度もそれぞれに応じていろいろあってもいいじゃないか、これもまた考え方の一つでありまして、どっちが正しいのか、日本がどっちを選ぶべきかというのは、今後よく議論をしていきたいなと、この問題に長く携わってきた一人として今も思っているのであります。
参議院の副議長というのは、本来SPの付く立場であります。私は、就任いたしましたときに、「もう惜しくもない命、税金で守ってもらうこともありません」と言いましたら、警視庁も、あっさりと、「そうですね」と、やめていただきました。申し上げたいことは、「本当に、もう政治家として、命もいらんという思いで頑張っていきたいなあ」と思っています。皆様とご一緒に頑張らせていただければ大変ありがたいということを申し上げて、ご挨拶にさせていただきます。どうもありがとうございます。
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